夏は山歩き、秋から春は古墳中心の遺跡巡り。主に筑後地区ですが、いつかは、全国へ・・・

ついでに上津土塁も

上津土塁を、というコメントにお応えして。

上津共同納骨堂の前の小さな築山が、わずかに残る上津土塁の一部といわれています。
以前は、国道3号線からも見えていましたが、現在は住宅にはばまれ、そばでしか見られません。
IMG_7806.jpg
築造年は水城と同じ西暦664年頃とされています。(白村江の戦いの翌年)

明治35年の地図では、500mの盛り土がわかります。
kamitudorui.jpg

以下昭和60年の調査やその他の資料をまとめてみます。

水城との共通点
 ①平野のくびれた所をさえぎる形で繋がれていること。

 ②版築工法で築かれた、人工の盛り土であること。

 ③水城が博多湾側に溝が掘られているのに対し、上津土塁は有明海側に溝が掘られてること。

 ④丘陵の取りつけ部の近くに、城門らしい遺構があること。

 前回書いたように、上津土塁が築かれた場所は、時代の差はあるとはいえ、藤山道、坊津街道が交差する、交通の要衝。
 藤山道は、女山~岩戸山古墳~甲塚古墳~浦山古墳から上津土塁を経て北に伸びています。
筑紫君磐井も当然利用しているでしょう。

 一方、坊津街道(薩摩街道)は太閤道ともいわれ、豊臣秀吉が高良山下の吉見岳城から上津小学校の西側から高良台を通り移動して行ったようです。その先の荒木町の相川あたりで西海道と合流します。
 北は御井町から神代橋あたりを通り、北へ伸びていきます。

上津小学校のそばには、坊津街道の道しるべを兼ねた供養塔があります。右側が坊津街道で高良台へと続きます。
IMG_7509.jpg

 ところで、678年に起きた筑紫大地震の跡がこの上津土塁にも残っていたようです。陥没したところを修復し、土を盛っていたようです。
この跡は残念ながら、すぐそばの”蓮の池公園”の地下に埋もれています。
IMG_7803.jpg

 豊姫様は本山の蓮の池に居られたということですから、このあたりでしょうか。
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筑後国造

Author:筑後国造
遺跡、特に古墳、山登り、地図そして高いところが大好き。郷土の先人、筑紫国造磐井様より一部名前を拝借しております。

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