夏は山歩き、秋から春は古墳中心の遺跡巡り。主に筑後地区ですが、いつかは、全国へ・・・

瀬織津姫と古墳 みやま市

神功皇后ゆかりの神社を散策している途中、瀬織津姫を祀った神社がありました。
瀬織津姫は、歴史から封印された謎の女神で水神、滝神、河神です。
筑後地方では、祀られている神社を、まだ矢部川流域にしか見出せていません。
まずは、みやま市内の3社。

みやま市瀬高町文廣

潮斎(しおい)神社


御祭神:瀬織津彦姫神、瀬織津姫神

矢部川堤防そばの田んぼの中に、のどかに鎮座しています。
潮斉神社 (2)

祠のみです。
潮斉神社 (1)


みやま市瀬高町有富

若宮神社

御祭神:菅原神・兒屋根命・少彦名命・瀬織津姫命・武内宿禰命

若宮神社

若宮神社 (1)

干珠、満珠の玉を持った女神(豊玉姫と玉依姫)を囲んだ19体のカッパ像が安置されていますが、普段は見られません。
若宮神社 (2)


みやま市瀬高町大神

乙宮神社

御祭神:豊玉姫神

矢部川支流の大根川のそばにあり、瀬織津姫と直接のつながりはありませんが、乙宮神社の由来縁起の中に、下記の天道社の祭神の記述があるそうです。
乙宮神社 (2)

社殿は無く、基壇のみが残り、神社は近くの下小川八幡神社に合祀されています。
乙宮神社 (1)


天道社

御祭神:罔象女(みずはのめ)神・瀬織津姫神

乙女神社と溝を挟んだ所に鎮座しています。右後ろに乙女神社の基壇が見えます。
天道社
「主神は女神像で異国風の衣装。頭巾らしきものを被り、頭部に「猿頭」を刻む。 脇にカッパ像がある」という。(ひもろぎ逍遥より)
管理されている方がお留守の為、拝観できませんでした。


下小川八幡神社

御祭神:応神天皇・武内宿禰・住吉神

下小川八幡神社 (4)

本殿内に、乙女神社が合祀されています。
下小川八幡神社 (2)


観音堂古墳?

乙女神社のそばの小さな高まり。石棺が出土したため、観音堂を建て、供養したそうです。
観音堂 (2)

周辺に石材らしきもの。
観音堂 (1)

神功皇后伝承と古墳 諏訪神社

息長足姫命當郡大塚の里に土蜘蛛田油津姫退治の節、朝敵降伏の為に諏訪神を祭り、御社を山の谷合に建てられし處・・・
(諏訪神社由緒)

神功皇后は、田油津姫討伐の為、諏訪神を勧請し、周到な準備をしていたようです。


みやま市瀬高町本吉

諏訪神社

御祭神:建御名方神

鳥居
諏訪神社 (6)

楼門
諏訪神社

荘厳な拝殿
諏訪神社 (5)

諏訪神社 (1)

幣殿と本殿
諏訪神社 (3)

本殿

諏訪神社 (2)


参道脇に

宮地嶽神社

御祭神:神功皇后

宮地嶽神社




諏訪神社の背後にある砂防ダムの工事用道路建設の際、装飾古墳が発見されました。

成合寺谷古墳

石屋形
成合寺谷古墳 (3)

石棚天井石前縁赤色の三角文と白色の菱形文、塗り残しによる緑の三角文
成合寺谷古墳 (6)

顔料による装飾が前室、後室の周壁、袖石とまぐさ石の下面、石棚の天井石前縁部、袖石で確認されています。
成合寺谷古墳 (4)
(みやま市歴史資料館展示資料)

複式横穴式石室ですが、石室保護のため封鎖されています。
成合寺谷古墳 (7)

成合寺谷古墳 (1)

麓から見た成合寺谷古墳。
成合寺谷古墳 (8)

神功皇后伝承と古墳 聖母宮 決戦いくさば  

「山門郡大塚の里に、土蜘蛛田油津媛退治の節、此の里に軍ありし故に邨名を久佐婆、今草場と書云う」と香椎神社の由緒にあります。
神功皇后軍と田油津姫の戦いの場、戦場(いくさば)が転じて久佐婆、そして草場になったと考えられています。
明治9年、大塚村と草場村が合併し大草村となり、現在の大草となっています。

みやま市瀬高町大草(旧草場村)

聖母宮(草場) 

御祭神:神功皇后・応神天皇

鳥居
草場聖母宮 (1)

神橋と楼門
草場聖母宮 (3)

拝殿
草場聖母宮 (2)

激しい戦場となったのを想像できない、田園地帯ののどかな神社です。
草場聖母宮 (4)

この聖母宮にも御神幸行列がありました。「草場行列(どんきゃんきゃん)」と呼ばれ、昭和45年まで行われていたようです。
しかし、鷹尾神社や廣田八幡神社と異なり、行列の出発は座元からとなっていました。


さて、戦いは即座に神功皇后軍が田油津姫を討ち取ったとなっています。

一方、死闘となり、武内宿禰の活躍により辛くも神功皇后軍の勝利となったという説もあります。

『いよいよ戦が始まりましたが、両軍とも互いに死力を尽くして、なかなか勝敗がつきません。陽は西に沈みました。その時、田油津媛は皇后の陣に使いを送って「明朝一番鶏の鳴くまで一時休戦しよう。」と申し入れました。
皇后もこれを承諾しました。ところが、田油津媛の軍は女山に数メートルもある城壁を築いているのです。あと西南の隅を残すだけになっていました。
多くの人々を使って、高田町の飯江から堅固な巨石を運ばせて、残りの城壁を作りあげようとしているところでした。
このことを知った神功皇后の軍は「今、何とかしなければ不利になる。」と急いで軍儀を開き方法を考えました。
その時、軍の参謀である武内宿禰が、竹皮で作った二つの笠を両手で持ってたたき合わせ、鶏の羽ばたきに似せ、鶏の鳴き声を巧みに真似てみせました。
この方法を実行しますと羽音、鳴き声に付近一帯の鶏ははや夜が明けたかと鳴き合わせたので、工事途中の田油津媛軍は驚いてあわてふためき、防ぐかまえもそこそこになりました。
そこで、待っていましたとばかりに、皇后軍が一気に攻め入りましたので、土蜘蛛軍は敗走して田油津媛はとうとう戦死してしまいました。』

(ふるさとの昔ばなし:瀬高の民話と伝説より)



戦場の東に女山。
IMG_0475 (800x289)

女山の神籠石

女山神籠石 (1)

女山神籠石 (2)

長谷水門
女山神籠石 (3)

神籠石周辺の古墳

山内古墳群

1号墳
山内古墳群 (2)

2号墳
山内古墳群 (1)

相撲場古墳群

鶏塚
相撲場古墳群 (2)

3号墳(仮称)石室
相撲場古墳群 (1)

神功皇后伝承と古墳 車塚・聖母宮

田油津姫との戦の場まで1kmほど、陣を構え作戦を練った場所です。

「気長足姫尊田油津媛退治の節神與を駐留せられ故社地名車塚と號す。」と香椎神社の由緒にあります。

みやま市瀬高町山門

車塚

鏡堂

古墳の上に鎮座しています。
車塚古墳

古墳の石材でしょうか?
車塚古墳 (1)



聖母宮(藤ノ尾

御祭神:神功皇后、応神天皇

明治時代までは、香椎神社として、車塚の上にありましたが、現在南南東300mほどの地に遷座されました。
聖母宮 (1)

本殿
聖母宮 (2)

聖母宮 (3)

車塚


この地区の古墳

車塚

車塚古墳 (3)

全長55mの前方後円墳  墳丘は削られています。
車塚古墳 (2)

後円部
車塚古墳 (4)

この地区には、もう一つ、重要な古墳群があります。

みやま市瀬高町山門字堤

堤古墳群

堤の集落全体が方形の丘陵地にあり、
10ヶ所に巨石が確認されています。古墳の石室の石材や支石墓と思われます。
堤古墳群 (3)

横穴式石室と思われます。
堤古墳群 (2)

堤古墳群 (4)

堤古墳群 (6)

支石墓?
堤古墳群 (5)

出土した箱式石棺が、清水小学校に移設復元されています。
堤古墳群 (1)

神功皇后伝承と古墳 廣田八幡宮・聖母宮

地元の方の話によると、神功皇后が船を着け、上陸したのは、下庄八幡神社の北500mの廣田八幡神社ということでした。


みやま市瀬高町文廣

廣田八幡神社

御祭神:住吉大神、応神天皇、春日神

鳥居
廣田八幡神社 (1)

見上げんばかりの楼門
廣田八幡神社 (2)

拝殿
廣田八幡神社 (3)

拝殿と本殿
廣田八幡宮 (1)

楼門だけが高い位置にあります。
廣田八幡宮 (2)

境内の福岡県無形文化財に指定されている、「どんきゃんきゃん祭り」の記念碑
廣田八幡神社 (4)

「どんきゃんきゃん祭り」とは、芳司の廣田八幡神社から矢部川を渡り、対岸の本郷の聖母宮まで3kmほどの御神幸行列です。笛、太鼓、鐘の音が”どんきゃんきゃん”と賑やかに行列が続きます。
1151173.jpg 1824305[1]
(みやま市のホームページより)




みやま市瀬高町本郷

聖母宮(本郷)
  
御祭神:神功皇后

本郷聖母宮 (2)

拝殿
本郷聖母宮 (1)



瀬高町誌に、樋口八幡神社の伝承に「神功皇后が山門の県の田油津媛を退治する為海路より船舶を着け上陸された地点を社地とした」または「神功皇后海路より本郷へ行幸された時この地に御船を着け上陸された地である」、とあったのは、”本郷へ行幸された”という文言から廣田八幡神社のことではないかと思われます。


廣田八幡宮縁起」の内、関連する部分を取り上げてみます。
「当社勧請の年記を尋ねるに、神亀元(724)年11月19日、豊洲宇佐の宮より、この所に遷幸されたと云う。
・・・・・・
兎狭(宇佐)国造兎狭津彦の後裔、兎狭津速麻呂あり。
神功皇后に仕え奉って、三韓を海上に攻め戦う。時に、津速麻呂の武功、著しいによって、皇后はこれを感じられました。すなわち、筑紫廣田県二百七十町の封戸を授与され、津速麻呂はこれを領地とした。
・・・・・・
筑後国下妻郡廣田庄本后(郷)邑の仮宮に安置し奉り、その後、芳司なる塩忍井川(矢部川)の中瀬の上に西向きの宮殿を構え、八幡太神、春日大明神、住吉大明神三神の大神を安置し奉ると云う。」

応神天皇を祀る廣田八幡神社の祭神に神功皇后はありませんが、どんきゃんきゃん祭りにより、母である、本郷の聖母宮と今もなお深い繋がりを思わせます。

この御神幸行列は、鷹尾神社にもありましたが、この後の神社にも登場します。


近くの古墳としては

文廣大塚古墳

周囲40mほどの円墳がでしたが、今は田んぼになり、消滅しています。
文廣大塚古墳
(瀬高町誌より)


プロフィール

筑後国造

Author:筑後国造
遺跡、特に古墳、山登り、地図そして高いところが大好き。郷土の先人、筑紫国造磐井様より一部名前を拝借しております。

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